王立統計学会について
英国王立統計学会(Royal Statistical Society, RSS)は、イギリスに本部を置く世界的に著名な統計学会です。19世紀に設立されて以来、統計学の理論と応用の発展に重要な役割を果たし、現代のデータ分析やAI(人工知能)分野にも大きな影響を及ぼしています。本記事では、RSSの歴史と目的、その活動内容、日本や他国への影響、さらにデータ分析・統計学の発展への寄与について、一般の読者にも分かりやすく解説します。
王立統計学会 ロゴ
RSSの概要と歴史
設立と目的
英国王立統計学会(RSS)は1834年3月に「ロンドン統計学会」として創設されました。当時、産業革命期のイギリスでは社会状況を数量的に把握する必要性が高まっており、RSSは「社会の状態を示すための事実を収集・整理・公表する」ことを目的に設立されました。このように、当初の統計学は現在のような解析手法の学問というより、社会に関する情報(統計)を集めることに重点が置かれていたのです。
創設メンバーには、解析機関車の発明で知られる数学者チャールズ・バベッジや、人口論で著名な経済学者トマス・マルサスなど当時の知識人が名を連ねました。彼らの協力のもと発足した学会は、その後1887年にヴィクトリア女王から「王立」の称号を授与され、現在の名称である王立統計学会(RSS)となりました。さらに1993年には統計士協会(Institute of Statisticians)と合併し、学術団体としての顔に加えて統計専門家の職能団体としての機能も強化しています。
学会の役割と活動
RSSは創設以来、統計学の発展と社会への応用を推進する中心的な役割を果たしてきました。具体的な活動としては、統計教育の振興、統計学研究の奨励、統計手法の開発支援、そして統計に基づく政策立案への助言など、多岐にわたります。
例えば、学会誌『Journal of the Royal Statistical Society』を創刊し、優れた研究成果を発表する場を提供するとともに、年次大会やセミナーを開催して専門家同士の交流や知見の共有を図っています。また、政府に対して統計制度の改善を提言するなど公共政策にも関与しており、実際に2007年には同学会が長年訴えてきた英国の新統計法(統計登録局法)が施行されました。この法律はイギリスの公式統計の独立性と信頼性を高める重要なもので、RSSの働きかけが立法に反映された例と言えます。
著名な人物とエピソード
RSSの長い歴史の中では、多くの著名人が関わってきました。1858年には看護師として統計を医療改善に活かしたフローレンス・ナイチンゲールが、同学会初の女性会員として迎え入れられています。ナイチンゲールはクリミア戦争での死亡原因を統計的に分析し、兵士の衛生環境改善に貢献したことで知られ、彼女の入会は統計学が社会改革に直結し得ることを象徴する出来事でした。また、イギリスの元首相ハロルド・ウィルソンや社会保障制度の生みの親とされる経済学者ウィリアム・ベバリッジもRSSの会長職を務めています。特にベバリッジ卿は第二次大戦中にベバリッジ報告書をまとめ、戦後の福祉国家モデルに影響を与えましたが、これは日本の社会保障制度にも大きな示唆を与えました。こうした歴代の会員・関係者の顔ぶれからも、RSSが単なる学術団体に留まらず、社会全体に影響を及ぼす存在であったことが窺えます。
現在、RSSは本部をロンドンに置きつつも世界中に会員を有する国際的な組織へと発展しています。21世紀に入りデータの重要性が飛躍的に高まる中、RSSは「データが理解と意思決定の中心となる世界」というビジョンを掲げ、統計学とデータサイエンスの普及啓発に努めています。
2020年代には会員数が1万人を超え、そのうち約1,500名はイギリスでチャータード・スタティスティシャン(公認統計家)と呼ばれるプロの資格保有者です。全ての会員はフェロー(Fellow)と呼称され、学生から専門家まで幅広く門戸が開かれている点も特徴です。このようにRSSは、伝統ある学会であると同時に、統計のプロフェッショナル集団として統計学の質の保証と向上をリードする存在となっています。
RSSが日本や諸外国に与えた影響
英国王立統計学会は、その活動と理念を通じてイギリス国内のみならず世界各国に影響を及ぼしてきました。RSSは米国のアメリカ統計学会(ASA)とは姉妹団体の関係にあり、両者は共同で一般向けの統計誌『Significance(シグニフィカンス)』を発行するなど連携しています。またRSS自体、会員規模および歴史的影響力の点で世界最大級の統計関連組織であり、その示す基準や取り組みは国際的なベンチマークとなっています。ここでは、日本およびその他の国々に対するRSSの具体的な影響例を見てみましょう。
日本への影響
日本において統計学やデータ分析分野へのRSSの影響は、教育・資格制度から政策立案まで多岐にわたります。まず教育面では、かつて日本統計学会(JSS)とRSSが提携し、RSS/JSS統計検定試験を共同実施していたことがありました。この試験は大学教養レベル(Higher Certificate)および大学卒業レベル(Graduate Diploma)に相当する内容で、日本国内で国際水準の統計力を測定する貴重な機会となっていました(現在は残念ながら実施終了)。このような試みは、日本の統計教育にRSSのカリキュラム標準を取り入れることで、人材育成の質を高めようとしたものです。
政策面での影響としては、前述のベバリッジ報告書が挙げられます。RSSの会長も務めたウィリアム・ベバリッジの提唱した社会保障モデルは、日本の戦後の社会保障制度構築に大きな影響を与えました。戦後日本の福祉政策はイギリスの制度を参考にした部分が多く、ベバリッジ報告に触発された「ゆりかごから墓場まで」の社会保障理念は、日本の厚生行政にも投影されています。統計データに基づき社会問題を分析し制度設計につなげる、というRSS的アプローチが日本の政策立案にも貢献した例と言えるでしょう。
さらに近年では、ビジネス領域でのデータ活用においてもRSSの影響が見られます。日本企業や官公庁でもデータに基づく意思決定(EBPM: Evidence-Based Policy Making)が重視されるようになってきましたが、これは「データを意思決定の中心に」据えるというRSSの理念 に通じるものです。例えば日本政府は統計改革を進め、データに基づく行政運営を推進していますが、その背景にはRSSをはじめとする海外統計機関からの知見共有や助言が生かされています。また、人材育成の点でもRSSの影響は顕著です。
諸外国への影響
RSSの影響は日本のみならず多くの国々で見られます。例えば、アメリカのアメリカ統計学会(ASA)やインドのインド統計研究所(ISI)など、各国・地域で設立された統計学会の多くは19世紀以降に相次いで誕生しましたが、その先駆けであるRSSの存在がこうした動きに刺激を与えました。RSSのような統計の専門家コミュニティを作り、統計学の知見を社会に役立てようという発想が各国で共有され、現在では世界各地に統計学会ネットワークが広がっています。国際統計協会(ISI)の設立にもRSS会員が関与しており、国境を越えた統計学者同士の協力関係構築にもRSSは貢献しました。
政府統計への寄与に目を向けると、RSSは英国以外でも統計制度のモデルケースとして参照されています。統計データの信頼性確保や統計機関の独立性といったテーマは各国共通の課題ですが、RSSが主導した英国の統計改革(前述の2007年統計法など)は他国にとっても参考例となりました。実際、カナダやオーストラリアなど英連邦諸国を中心に、政府統計の改善にRSSが提唱する良い実践(ベストプラクティス)を採り入れる動きが見られます。RSS自身も各国の統計局や国際機関(OECDや国連統計委員会など)に専門家を派遣したり助言を行ったりしており、統計による政策支援というグローバルな課題にコミットしています。例えば、新型コロナウイルスのパンデミック時にはRSSが蓄積する疫学統計の知見が各国の公衆衛生戦略にも共有され、統計モデルを使った感染予測や効果検証に役立てられました。こうした国際協力は「統計学を公共の利益のために役立てる」というRSSの慈善団体としての使命とも合致するものです。
学術界への影響としては、RSSが刊行する学会誌や開催する会議が世界中の研究者にとって重要な情報源・発表の場となっている点が挙げられます。特に学会誌『Journal of the Royal Statistical Society』は統計学のトップクラスの学術誌として広く認知されており、過去に掲載された論文には現在の統計学・データサイエンスの基盤となっているものも少なくありません。たとえば、統計的品質管理に使われる手法や、機械学習の評価指標として有名な「決定係数」の概念なども、RSSの出版物や会合で議論が深められてきた歴史があります。
また、RSSとASAが共同発行する『Significance』誌は専門家だけでなく一般読者にも統計の面白さを伝える雑誌であり、世界中で統計リテラシー(統計を正しく読み解く力)の向上に貢献しています。日本語版でも一部記事が紹介されており、統計トピックを平易に解説するモデルケースとして日本の科学雑誌にも影響を与えています。
産業界においても、RSSの影響は見逃せません。現代は「データの時代」と言われ、ビッグデータ解析やAIによる意思決定支援が企業の競争力に直結しています。RSSは産官学の橋渡し役として、ビジネス分野への統計手法の浸透を後押ししています。例えば、RSS主催の年次大会では産業界のデータサイエンティストが多数参加し、実務での課題と最新手法について議論します。
以上のように、RSSは教育・行政・学術・産業といった各分野において国境を越えた影響力を持っています。「統計学の発展と公共の利益のために」という設立以来の理念は、時代や場所を超えて受け継がれ、データに基づく社会づくりに大きく貢献しています。
データ分析・統計学の発展への影響
次に、RSSがデータ分析や統計学そのものの発展に果たしてきた役割を見てみましょう。統計学の知見は近年のAI(人工知能)・機械学習ブームの土台にもなっており、「統計なくしてAIなし」と言われるほど両者は密接な関係にあります。RSSは約200年近い歴史の中で培われた統計学の伝統と知恵を、新しいデータサイエンスの潮流に結びつける架け橋となっています。
統計学の基礎的貢献
RSSから生まれた数々の研究成果が、今日のデータ分析手法の基本を形作っています。例えば20世紀前半に活躍した統計学者ロナルド・フィッシャーはRSSの会員であり、同学会で研究発表や議論を重ねる中で「分散分析法」や「統計的推定理論」を確立しました。フィッシャーの業績(例えばp値による有意検定や最尤法によるパラメータ推定など)は、現在の機械学習アルゴリズムの評価・最適化手法にも通じています。また、デイビッド・コックスが提唱したコックス回帰モデルは1970年代にRSSの場で発表され、医学や工学における生存時間データ解析の標準手法となりました。このモデルは医療データやIoTセンサーの故障予測データなどビッグデータ解析にも応用されており、RSSが育んだ統計理論が現代のデータ解析技術の礎石となっていることがわかります。
さらにRSSは、統計学における新しいパラダイムの創出にも貢献してきました。第二次世界大戦後、計算機の発達とともにベイズ統計やシミュレーション手法が注目され始めると、RSSは1950年代から1960年代にかけてこれらを学会誌で特集したり議論の場を提供したりしました。その結果、MCMC法(マルコフ連鎖モンテカルロ法)など高度な計算統計手法が統計コミュニティに広まり、現在の機械学習(特にディープラーニング以前の生成モデルなど)にも影響を与えています。統計学の理論的進歩とデータ分析現場のニーズを結びつけるハブとして、RSSは常に時代の先端を走ってきたのです。
AI・ビッグデータとの関わり
21世紀に入り、ビジネスや科学の現場ではビッグデータやAIがキーワードになりました。RSSはこうした新潮流に対応すべく組織的な取り組みを進めています。2017年には学会内に「データサイエンスとAIセクション」を新設し、ビジネス界・産業界・政府・学界から幅広い代表が参加する体制を整えました。
このセクションは、データサイエンスと人工知能を巡る新たな機会と課題に統計学者として積極的に関与することを目的としており、社会的・倫理的な論点から職業能力の開発支援まで、多角的な活動を展開しています。
具体的には、データサイエンス人材に求められるスキルセットの明確化や、AIアルゴリズムのもたらす社会影響(公平性やプライバシーなど)についての議論をリードし、政府のAI戦略に対して提言を行うなどの役割を果たしています。
例えば、イギリス政府がAI政策を検討する際にはRSSが専門家の立場から勧告を行い、統計的な観点(データの質保証やモデルの検証方法など)を政策に反映させる支援を行いました。また、RSSのデータサイエンスとAIセクションは定期的にセミナーやワークショップを開催し、世界的なAI研究者との交流を深めています。その一環で、機械学習の著名人であるアンドリュー・ング氏を招いたイベントも開催され、統計学者とAI研究者の対話を促進しました。これは、伝統的な統計コミュニティと最先端のAIコミュニティをつなぐRSSの姿勢を象徴する出来事です。
RSSはまた、ビッグデータ時代におけるデータ倫理や信頼性の確保にも力を入れています。前述のデータサイエンス専門職アライアンスでは、膨大なデータを扱う職種に対する行動規範やスキル基準を策定し、データの不適切利用を防ぐ枠組みを整えようとしています。
このような取り組みは、AIの判断がブラックボックス化する問題や、データに偏りがあることで差別的な結果が生じるリスクに対処する上で極めて重要です。RSSは統計学者ならではの視点で、アルゴリズムの妥当性検証や不確実性の定量化といった技法を提案し、データ駆動型の意思決定が社会にとって有益かつ公平になるよう尽力しています。例えば、RSSはイギリス統計学会(Royal Statistical Society)の名のもと、データ宣言(Data Manifesto)を発表し、政府や企業に対してエビデンスに基づく政策策定とデータの公開・共有を促す勧告を行いました。この宣言では「データは政策立案や民主主義、社会の繁栄のための原動力である」と強調されており、信頼できるデータ基盤の構築や統計リテラシー教育の重要性が説かれています。こうしたRSSのメッセージは各国にも共有され、実際にOECDなど国際機関のデータガバナンス指針に影響を与えました。
学術会への貢献
RSSは独自の研究プロジェクトや賞の授与を通じても統計学・データ分析の発展に寄与しています。毎年、統計学や応用分野で顕著な功績をあげた研究者にはガイ・メダル(金・銀・銅)を授与し、その業績を称えています。このメダル受賞者の業績には、現代のデータ分析手法の基盤となったものも数多くあります。例えば、ガイ・メダル銀賞を受賞したイギリスの統計学者ジョン・テューキーは「探索的データ解析(EDA)」を提唱し、ビッグデータ解析の初期段階でデータを直観的に把握する手法を示しました。また、日本人では赤池弘次氏(統計的情報量規準AICの考案者)が1988年にガイ・メダル銀賞を受賞しており、統計モデルの選択手法という分野で世界的な評価を得ています。このようにRSSは賞やフェローシップによって優れた研究を可視化し、そうした知見が広く共有されるよう促進しています。
総じて、RSSは統計学の伝統を守りつつ時代の変化に対応してきた柔軟な組織です。ビッグデータやAIといった新潮流にも積極的に関与し、統計の視点を取り入れることでこれらをより良い形で社会に役立てようとしています。その結果、統計学とデータサイエンスの境界は次第に薄れ、両者が融合した形で発展してきていますが、その背後にはRSSのような組織による牽引があるのです。今日のデータ分析の隆盛を見るとき、RSSが長年培ってきた知見とネットワークが不可欠な土台となっていることは間違いありません。